6時半起床。
娘が朝から発熱している。それほど高熱ではないし本人も元気そうだが、学校はお休み、明日の妻と娘の仙台旅(妻の友人宅訪問に娘が付いていく)は保留にする。私は元々今日は人と会う予定があって休みにしていたのだが、万が一(コロナなど)のことを考えて延期にしてもらう。
今日は妻がテレワークなので、娘が明日の仙台に行けない(妻が1人で行く)という前提で、私の明日の予定を今日に前倒させてもらうことにする。
朝食は蜂蜜入り豆乳ヨーグルト。
身支度を整え、9時前に家を出る。
東京まで出て、9:44発の長野新幹線あさま607号に乗る。

車内販売がないので、事前に駅のホームで珈琲を買っておく。

ホットコーヒーが美味しく飲める気候になって嬉しい。

直前の変更で普通車が満席だったので、グリーン車に課金する。

あさま号は各駅停車なので、本庄早稲田駅にも停まる。所沢にはスポーツ科学部とかが入っているけれど、ここには高校だけで大学はない(ですよね?)。

1時間半ほどで目的地の上田に到着。

15年前に一度、北向観音を参拝しに来たことがあるのだが、駅を下りても全く見覚えがない。

最初の目的地へ向けて10分ほど歩く。

「上田映劇」の前を通る。1917年(大正6年)開業の映画館だそうだ。

開業当初は「上田劇場」として歌舞伎の上演や講演会などで使用されており、昭和初期に映画館として改装されたらしい。

2011年に一度定期上映が終了したものの、その後NPO法人の運営により2017年に再開され、現在も現役の映画館である。

お隣にはストリップ劇場があった…かと思いきや、映画撮影のセットとして設置されたものをそのまま残しているらしい。

海野町商店街を歩く。潮風が流れてきそうな名前だが、ここは長野県である。

中華料理「檸檬」に入る。

伊集院光さんがラジオ(深夜の馬鹿力)で何度か話していた中華料理屋さんである。

名物は五目あんかけ焼きそば(什景炒麺)。

伊集院さんは他のメニューについても「何を食べても美味しい」と仰っていたが、現在は五目あんかけ焼きそばのみの提供となっている。どうやらスタッフさんのご病気で休業されていた時期もあるそうで、現在も万全の営業体制ではないようである。

というわけで、注文は五目あんかけ焼きそば(普通盛り)。

優しい塩味の中華あんである。

焼きそばはほんのり焼き目のついた柔らかい麺。途中でからしやお酢で味変をして食べる。焼きそばもいいけれど、おそらく中華丼にしても美味しいのではないだろうか。

昼食を終え、同じ商店街内にある「富士アイス」へ寄ってみる。

「志”まんやき」(じまんやき)とは何ぞや。

今川焼きのことだった。あんことカスタードが選べたので、定番のあんこを選ぶ。ぎっしり詰まっていて美味しい。後から調べたら、上田のソウルフードと呼ばれているそうだ。

上田駅へ戻り、上田電鉄別所線に乗る。

自動改札がQRコード式である。Suicaでは通れないが、この切符を買う券売機ではSuicaを含むキャッシュレス決済が可能である。

路線の終点は別所温泉だが、この電車は途中の下之郷までである。本当はその2つ先の塩田町まで行きたいのだが、そのためには30分後の電車を待たないといけないので、とりあえず下之郷まで乗ってみよう。

上田電鉄が保有する車両は5編成(10両)。全てが東急電鉄から譲渡されたものである。この車両は1002編成「れいんどりーむ号」で、1991年に製造され2008年から上田電鉄で走っている。

車両のラッピングは龍。沿線にある塩田平は雨が少ない地域で古くから雨乞いの文化があり、山に住む龍にお願いして雨を降らせてもらうことで田畑を守ってきたことから、「龍と生きるまち」と呼ばれているそうだ。

上田電鉄は、上田交通から鉄道部門が分社化される形で2005年に創業した会社である。20周年、おめでとうございます。

温かみのある車内である。座席の座り心地もよく、危うく寝落ちしそうになる。

12時31分、上田発。車窓を眺めているだけで楽しい。

途中、長野大学と上田短期大学がある大学前駅のあたりまでは市街地を走り、その後は田園地帯になる。おそらく学生さんだろう、乗客も大半が大学前駅で下車し、残ったのは私のような観光客がほとんどである。

この列車の終点、下之郷駅に到着。

留置線に1001編成が停車している。ラッピングされていない、東急線そのままの車両だ。

目的地まで、本来は2駅先の塩田町駅から約2キロを歩く予定だったが、この下之郷駅からだと4キロ弱ある。歩くのはさすがに…と思っていたら、駅前にシェアサイクルを見つけた。

すぐに会員登録をして自転車を借りる。これは嬉しい想定外である。

風は気持ち良いし、なんといっても景色が素晴らしい。

稲刈りは無事に終わっているようである。これも龍のおかげだろうか。

走っているだけでウキウキする道である。

所々で自転車を止め、周囲を見渡す。空気が綺麗で何度も深呼吸をする。

そろそろ目的地が近づいてきた。歩いたら1時間は掛かる距離だが、自転車だとあっという間である。

終盤になかなかの坂道が待っていた。電動自転車でなかったら押して歩かなければならないレベルである。

分岐を危うく通り過ぎそうになり、少し引き返して正しい道へ戻る。

目的地の「無言館」に到着。

正式名称は「戦没画学生慰霊美術館 無言館」である。太平洋戦争に出征して亡くなった画学生たちの遺作、遺品を展示する美術館で、全国の戦没画学生のご遺族から寄託された作品を集めて1997年に開設された。

館内には作品だけでなく、作者の経歴やご遺族からのコメントも紹介され、一部の方については遺品も展示されている。

こんな温かい絵を描いていた人が戦争に行って殺し合いをしなければならなかったのか…。出征当日の朝まで描いていたというこの絵には一体どんな想いが込められているのだろう。もし生きて帰って来ていたら、他にどんな作品を描いたのだろう。モデルとなったこの人(奥さんやご両親、お子さん、兄弟姉妹など)はどんな気持ちで出征を見送り、ご遺族はどんな気持ちでこの作品を守り続けてきたのだろう。

作者の経歴の最後には、亡くなった場所と(判明している場合は)亡くなり方が記載されている。もちろん戦闘によって亡くなった方もいらっしゃるが、多くの方が「戦病死」と書かれていた。先日、石破首相が出された『戦後80年に寄せて』という内閣総理大臣所感に関する記者との質疑応答の中であった「戦争に行かれた方々の6割は、戦火を交えたというよりも、餓死であり、病死でありということであったという事実をどう考えるか…」という言葉を思い出す。

第二展示場の庭には、太平洋戦争末期の激戦地である沖縄県糸満市の「摩文仁の丘」から運ばれてきた石が敷き詰められている。私も2回訪れたことがあり、今は平和祈念公園になっていてとても綺麗な海が見える場所である。

私は普段、人から聞いたり何かで見たりして興味を持った場所にグーグルマップで印を付けておく習慣があり、時間ができるとその印から行けそうな場所を選んでいる。ここもその場所のひとつで、いつ何がきっかけで印をつけたのかは覚えていないのだが、この場所の存在を教えてくれた誰か(何か)と、当時きちんと印を付けておいた自分と、それを可能にしてくれているグーグルマップに感謝したい。ここは本当に来て良かった。こんな時代だからこそ、特にそう思う。

無言館を出て、下之郷駅へ戻る。

「往路とは別の道を行ってみよう!」を繰り返していたら、危うく方向感覚を失うところだった。

今日は最後まで天候に恵まれた。雨だったら大変なことになっていただろう。

自転車を返却する。おかげで当初の予定よりかなり行程がスムーズになった。下之郷どまりの電車に乗って結果オーライである。

上田行きの電車に乗る。今度は1004編成「まるまどりーむ号」である。真田家の家紋である六文銭にちなんで窓が丸いから「まるまどりーむ」か。

折り返しは別所温泉行きになる。今回はちょっと強行スケジュールだったので、次は温泉でゆっくりできる行程を組みたい。

駅のお土産売場で信州そばを購入してから新幹線ホームへ向かう。

当初の予定より1時間半ほど繰り上げ、上田15:37発のあさま622号で東京へ戻る。自転車のおかげで往復2時間の徒歩が免除されたことが大きい。

17:12東京着。すぐに東海道新幹線に乗り換え、18時前に帰宅する。

娘は日中に一度39度台まで熱が上がったが、その後は平熱まで下がって元気そうにしている。ただ、痰が絡んだ咳もしているし、さすがに明日の仙台旅のメンバーからは外れることとなった。
無言館で購入した絵葉書を広げる。特に印象に残った3作品の絵葉書を購入した。

中村萬平『霜子』
1916年、静岡県生まれ。東京美術学校(現・東京藝術大学)油画科を卒業。中国・華北に出征。1943年、蒙古連合自治政府巴彦塔拉盟武川県において戦病死。享年26歳。

作者が妻・霜子さんを描いた作品。霜子さんが作者へ向ける視線に温かさと愛情がこもっているように見える。作者は霜子さんが身籠っている中出征し、お子さんは無事に生まれるが、霜子さんは半年ほどで病死してしまう。作者はその死を出征先に届いた手紙で知らされた。
蜂谷清『祖母の像』
1923年、千葉県生まれ。高等小学校を卒業後、銀座松原工房に勤務。召集をうけ佐倉連隊に入営し、満州(現・中国東北地方)に出征。1945年、フィリピン・レイテ島にて戦死。享年22歳。

おばあさんは孫の中でも作者を特に可愛がっていたそうで、出征が決まったと伝えると涙を浮かべながら無言でうなづくだけだった。
大谷元『妹像』
1917年、京都市生まれ。父は拓務大臣を務めた大谷尊由。1942年、第53連隊に入営し出征。1944年7月、テニアン島で戦死。享年27歳。

作者は妹を大変可愛がっており、妹にとって兄はいつも優しい人だった。家柄が良いため招集を回避することも出来たが、そうすることなく自ら出征していった。
おそらく、これらの絵葉書は誰かに出すことはなく、ずっと手元に置いておくと思う。
夕食は、妻が作ってくれた叉焼(焼豚)を中心に。

そのまま食べても絶妙な塩味だし、ニンニク醬油のタレをかけても美味しい。数日前に妻が黙々とニンニク醤油を作っていたので何に使うのだろうと楽しみにしていたのだが、さすがである。

入浴と洗濯を済ませ、娘を寝かしつける。娘は午後のほとんどを寝て過ごしていたそうだが、それでもかなりスムーズに眠った。早く平熱に戻ったとはいえ、やはり体力はかなり消耗したのだろう。
日付が変わる頃に就寝。
