6時半起床。
朝顔の水やりをする。
朝食は蜂蜜入り豆乳ヨーグルト。
娘を見送ってから、荷造りをして身支度を整える。今日は最後の夏休みを取り、明日の叔父の四十九日法要のため京都へ前乗りをする。
新横浜8:37発ののぞみ309号で京都へ。3連休の前日ということで、ホームは大混雑である。

所要時間は2時間。「FBI: 特別捜査班」を2本観られる。

京都から奈良線に乗る。

懐かしの205系である。子どもの頃の京浜東北線を思い出す。

本来は別経路が最短なのだが、この車両を見て遠回りをすることにした。

東福寺で京阪線(出町柳行き準急)に乗り換える。

三条で下車。大阪方面の特急を見送る。久しぶりにこの8000系にも乗りたいが、今回の行程では難しい。

京都方面には新3000系が入線してきた。こちらもかっこいい。

改札を出て、京阪三条北ビルに入っているお好み焼き・たこ焼き屋「風の家」で早めの昼食。かなり昔だが、祖母と一緒にここでお好み焼きを食べたことをよく覚えている。

モダン焼き(豚)を頂く。お好み焼きの上に焼きそばをのせ、上からふわふわ卵をかけるスタイルである。昔もそうだったかは記憶にないが、やはり味は美味しい。明日祖母に会うので、食べに行ったことを報告しよう。

京阪線で丹波橋まで南下し、近鉄京都線に乗り換える。地下鉄からの乗り入れ車両がやってきた。

伊勢田で下車。

宇治市伊勢田町にある在日朝鮮人集落「ウトロ地区」へ向かう。

宇治茶の茶園が点在している。

左手の路地を進む。元々狭い道が更に狭くなってきた。

ウトロ51番地というのが朝鮮人集落があった場所である。1910年の韓国併合による植民地化等により居場所を失い日本へやって来ていた多くの朝鮮人が、差別により仕事や住居を確保することもままならない中、1940年に始まった京都飛行場の建設工事に「国の仕事なので徴用にとられない」「住むところもある」との触れ込みで集められ、この集落が形成された。

集落は既に解体・撤去され、完全に更地になっている。

このあたりは飛行場建設のための採土により土地が低くなっており、大雨が降ると周囲から水が流れ込んですぐに床上浸水などの大きな被害が発生し、下水道も整備されていなかったため衛生面でも重大な問題が出ていたそうである。この状況は戦後も50年以上改善されなかった。

上水道の整備すら1988年までなされず、井戸水で生活していたそうだ。生活排水が垂れ流しの場所で地下水を利用するということがどういうことなのか、想像に難くない。

集落跡を進んでいくと、市営住宅が見えてくる。解体された集落の住民の移住先である。

終戦後、仕事を失った朝鮮人たちは他に行くところもなくウトロに住み続けるが、土地の所有者であった日本国際航空工業は解体され、その後身にあたる日産車体から土地を引き継いだ西日本殖産から立ち退き訴訟を起こされる。30年に渡る闘争を経て、最終的には韓国や日本国内からの義援金で住民たちが一部の土地を買い上げ、この市営住宅が建設されることになるのだが、そこまでの闘いはまさに壮絶である。

この市営住宅への入居が始まったのは2018年。2期に分かれて2棟が竣工し、住民の転居が完了したのはつい最近のことである。

市営住宅の奥に「ウトロ平和祈念館」がある。

前述したこれまでの経緯はここで詳しく展示・解説されている。

かつての飯場(住居)の一部が移転・保管されている。1943年頃に建設されたものだそうだ。

2021年8月には、ヘイトクライムによる放火事件が起き、この祈念館に展示予定だった立て看板等の資料が保管された倉庫が燃やされた。ここでは燃え残ったものの一部が展示されている。

飯場の壁や屋根は木材とコールタールなどで作られていた。今はもうコールタールをこのように使用することは出来ないが、防腐・防水機能という点では優れているし、価格も安かったので多くの住居で使用されていた。

祈念館に入り、展示・解説物を観ていく。内部は撮影禁止なので、以下の写真は飯場内に展示されていたものである。

館内では、朝鮮人がウトロに集まった経緯から当時の生活、戦後の環境変化や立ち退き訴訟とその後の闘いなど、これまでの経緯が詳しく且つかなりわかりやすく解説されている。

私はウトロという在日朝鮮人集落があるということは知っていたが、詳細はほとんど知らなかったので、結構な衝撃を受けた。

人種差別や厳しい住環境、長きに渡る闘争とかなり苦しい環境に置かれ、実際に若い人を中心に外部へ移った人も多いそうだが、それでもウトロを故郷として大切にしてきた方々の想いには胸を打たれた。

ウトロというとどうしても闘争のイメージが強くなりがちだが、そこには住民たちの日々の暮らしがあった。焼肉や農楽などの文化や、野球チームが作られていたり、親睦イベントがあったり、闘いと生活が共存する空間だったのである。

展示を見始めた時、最終的に市営住宅への移住という結果につながることはわかっていたので、最後は行政が主導して解決に向かったと思っていたのだが、実際には土地の取得(買取)資金の大半は韓国政府と韓国内からの義援金で、国内で集まった義援金もそれなりにあったが、行政が動いたのは一番最後だった。

移住にあたり各住居は無保証で解体され、今の更地になった。結局、法廷闘争の論点であった時効による土地の取得は認められなかったということである。

放火によって立て看板など当時の貴重な資料の多くは焼失してしまったが、ウトロの歴史を記録し守って行こうという取り組みは続いている。

「ウトロに生きる ウトロで出会う」

祈念館の屋上から飛行場跡地を眺める。現在その一部は陸上自衛隊の大久保駐屯地になっている。

市営住宅周辺にある集落解体後の空き地(土地の買取りが出来なかった場所)には、民間の集合住宅が建設されるようである。

常設展のあと、特別展「ガザ・パレスチナ 歴史と現在」も観る。小さな展示室だが、パレスチナのこれまでの歴史と現在置かれている状況がとてもわかりやすくまとめられていた。しかし、よく理解できれば理解できるほど、胸が痛くなる。

「ウトロ祈念館オープン祈念パンフレット」と中村一成『ウトロ ここで生き、ここで死ぬ』を購入。

「ガザ・パレスチナ歴史と現在」のパンフレットも購入。

「そういえば、京都にウトロっていう朝鮮人集落があったなぁ」くらいの気持ちでやって来たのだが、予想を大きく超えて充実した時間になった。来て良かった。

後半へ続く。
