7時起床。

 朝食は、昨日「パン工房ふぃーる」で買ってきたパン。

 9時過ぎにホテルをチェックアウトする。

 道の駅おながわを通って女川港へ向かう。

 娘は観光案内所でマンホールカードをもらってきた。

 震災遺構・旧女川交番を見学する。

 東日本大震災の津波で一度海中に沈み、その後の引き波によって基礎の杭ごと引き抜かれて横倒しになった交番である。

 女川では震災遺構として遺す建物の候補が3件あったが、「鉄筋コンクリート造の建物が津波の引き波で横倒しになったという希少性の高さ」からこの交番が選ばれたそうだ。

 2階建ての建物で、左手が1階(地面)側、右手が2階(屋根)側である。海は右手にあり、引き波によって倒れたことがよくわかる。

 本当に杭ごと引っこ抜かれている。一体どれほどの力が掛かったのだろう。

 震災当時の姿のまま現在の位置に遺すことが重要であるとの考えから、屋根の設置や大規模な修繕は行わず、経年劣化を許容しつつ100年程度の保存を目指す「見守り保存」という形が取られているとのこと。

 建物を囲むように女川の被災から復興までの様子が解説されている。

 一昨日の日記でも書いたが、私は東日本大震災の1年ほど前に女川に来たことがある。美しい港町で、ウニやいくら、サンマのすり身汁などを食べ、温泉も満喫した。港も散歩したが、海はとても穏やかだった一方で、チリ地震の際には大きな津波が来て駅まで水に浸かったという話を聞いたのも覚えている。だから、震災で東北地方が津波に襲われたと知った時、真っ先に思い浮かんだのは女川は大丈夫だろうかということだった。

 今回、約15年振りに女川へ来て、街の景色が一変していることに衝撃を受けた。

 15年前の記憶と、ここに載っている被災直後の様子と、現在いるこの場所が同じ街であるということに現実味を持てないでいる。

 早いところでも電気の復旧まで10日、水道は3週間掛かっている。一瞬「ガスは?」と思ったが、このあたりはプロパンガスだから(設備さえ壊れていなければ)復旧は早かったのだろう。

 「災害関連死」という言葉がある。内閣府によると、地震や津波などの直接的な被害によってではなく、「災害による負傷の悪化又は避難生活等における身体的負担による疾病による死亡」と定義されており、ここには精神的なストレスを原因とするものも含まれる。避難所生活はもちろん、その後の仮設住宅での生活も厳しいものであることに変わりはなく、そういう時に住民同士の交流が支えになったというのは他の多くの被災地でも言われていたことである。

 震災発生の年に中学校に入学した子どもたちが立ち上げた「いのちの石碑プロジェクト」。1000年後に同じ悲劇が繰り返さないようにとの想いから、町内21箇所の津波が到達した高さの地点に石碑を建立した。

 街の復興の方向性について「還暦以上は口を出さず」。さらっと書かれているが、なかなか出来ることではない。

 国内や諸外国からの支援もあり、街の基幹産業である水産業の復旧、商店街の再興、医療施設の整備など、ひとつひとつ復興が進んでいく。私たちが宿泊した「ホテルエルファロ」も、被災した4軒の旅館が協同して宿泊業を再開したものである。

 街全体の嵩上げ、居住地の内陸への移動、防波施設の強化整備やいざという時の避難経路の確保など、「海と共に生きる」ための新たな街づくりが今も継続して進められている。

 2013年9月に工事開始。

 2015年4月、盛り土による嵩上げや山の切り崩しによる台地の造成が進んでいる。

 2019年3月、内陸側を中心に建物の建設が進み、街の骨格が作られてきた。

 先述したように、街の様子は震災前と大きく変わっている。慣れ親しんだ街の変貌に寂しさもあるかもしれないが、こうして持続可能な街づくりが進んでいくのだろう。

東日本大震災では、女川町をはじめ、各地に甚大な被害がもたらされました。
各地の震災遺構や様々な記録とともに、震災の恐怖や悲しみは伝えられていくでしょう。
同時に、悲しみだけではないメッセージを伝えていくことも、私たちの大きな役目ではないか。私たちは、そう考えました。

あの日、私たちは、いつも当たり前だと思っていたものが実は当たり前ではなかったことを思い知らされました。
そこからの日々は、その当たり前をもう一度取り戻すために皆で歩んできた道でした。

私たちが取り組んできた復興まちづくりはどこかの時点で完了し、その姿は100年200年と続き、いつか将来の人々にとって当たり前のものになっているはずです。
でも、その姿は当たり前だったものが失われた跡に築かれたものであり、もっと言えば、震災前に私たちが当たり前だと思っていた郷土の姿も、実は戦火や災害で失われた当たり前を取り戻すべく、先人たちが築いてきたものであったことに気付かされます。

将来の人々にとって当たり前の姿はいつ失われるかわからないこと。そして、失われたとしても、それを取り戻すために皆で立ち上がらなければならないこと。
壊滅した郷土に生を灯す人の歩み。絶望から希望を紡ぎ出すこと。郷土に生きる私たちの想い。郷土の人々の生きる強さ。決してあきらめないこと。何があっても負けるな。

震災遺構を保存すべき、と提言してくれた当時の中学生たちは、町内各地に石碑を建立し、「将来世代をあの悲しみと苦しみに遭わせたくない」という願いを込め、未来の人々にメッセージを刻んでくれました。
その想いに、あの日からの歩みの中で得た私たちの学びや気付きを重ね、ここにそのメッセージを記します。
いつかの将来に郷土を災いが襲ったとき、人々の人生が何かに見舞われたとき、未来を生きる誰かの支えになれるように。

「今、女川町はどうなっていますか?悲しみで涙を流す人が少しでも減り、笑顔あふれる町になっていることを祈り、そして信じています。」

 女川港を歩く。

 少し寒いが、海風が心地良い。

 女川が山と海に囲まれた町であることがよくわかる。

 旧女川中学校に設置されている「いのちの石碑」を見に行く。未来の人々へのメッセージが刻まれている。

「ここは、津波が到達した地点なので、(この石碑は)絶対に移動させないでください。もし大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください。」

 こんなに高いところまで津波が来たのかと驚かされる。

 もう一箇所、山祗神社へ。

 海沿いとはいえ坂を上った場所だし、更に階段で上るのだが、ここまで津波が来たのか。

 まずは神社に参拝。

 海を見下ろす、いわゆる高台と呼べるような場所である。この石碑がなければ、ここまで来れば安心だなと思ってしまうだろう。

 記録上、女川を襲った津波の高さは最大14.8mである。数字だとあまりピンと来なかったが、実際に到達点へ来てみるとその高さは一目瞭然である。

 港へ戻り、妻が道の駅で買い物をしている間、娘と「マッシュパーク女川」で遊ぶ。

 ”海から遊びに来た生きものたち”をイメージした遊べるアートが点在している。これは「うみうしくん」。

 背中が滑り台になっている。私も娘と一緒に何度か滑ったが、結構ちゃんとスピードが出る。

 「さんごちゃん」は小さな滑り台。

 「ちんあなごくん」。登れるらしいが、私が登ったら折れてしまいそうなので遠慮しておく。

 「ひとでくん」。天井に星型の窓があり、晴れていると地面に星が映るようになっているらしい。

 「かいちゃん」は小さな子向けの滑り台かな。

 うみうしくんの上から女川の街を眺める。山を削ったり嵩上げされた場所に住宅地が形成されている。

 商業地域(道の駅など)の嵩上げは少し(標高4.4m以上)だが、その奥の住宅地や学校、医療施設はかなり高い場所(17m以上)に配置されている。後者は東日本大震災と同等の津波が来ても被災しない高さになっているそうだ。加えて、港の沖合いには防波堤も新たに配備されているそうである。

 「まぐろ屋明神丸」で昼食。まぐろ漁船の船主が営むまぐろ丼専門店である。

 私はまぐろざんまい丼。お味噌汁のお出汁が美味しい。

 ミナミマグロの赤身と中トロがのっている。しかも1切れが大きくて分厚い。

 トロの脂ののりはもちろん、赤身の味の濃さが印象的だった。

 娘はいくらまぐろ丼。メバチマグロとビンチョウマグロにいくらがのっている。

 妻は全部乗せの明神丼。ミナミ、メバチ、ビンチョウマグロに加えてネギトロといくらがのっている。

 食事を終え、帰途につく。

 往路でも寄った「道の駅東松島」に寄っていく。

 お目当てはブルーインパルスのVR搭乗体験。もう一度できると知って娘がとても喜んでいた。せっかくなので私も挑戦してみたが、ビギナーコースでも目が回ってふらふらになった。

 フードコートでおやつタイム。松島産の苺を使ったチョコクレープやソフトクリームを食べる。

 仙台駅へ戻ってレンタカーを返却し、喫茶店で少し休憩。

 仙台15:31発のはやぶさ24号で帰京する。

 18時前に帰宅。荷解きをして洗濯機を回す。

 夕食は、妻が女川の道の駅で見つけたラーメン。私は帆立、妻は牡蠣、娘はサンマの出汁のものを食べる。

 濃すぎるくらいしっかり帆立の味がする。これはラーメンだけでなく、鍋の出汁などにしても美味しいと思う。

 入浴と洗濯を済ませ、娘を寝かしつける。

 23時半前に就寝。