5時起床。

 身支度を整え、5時半過ぎに家を出る。今日から1泊2日で大阪へ行く。主目的は母方の祖母に会うことだが、それは明日なので、今日は少し前から興味を持ち始めた場所へ行ってみることにした。

 せっかくなので、新横浜始発の一番列車に乗ってみよう。6:00発のひかり533号に乗る。

 ひかり号ではあるが、西明石まで後続ののぞみ号に一切抜かれないという特別なひかり号である。

 8時12分に新大阪に到着し、地下鉄御堂筋線、近鉄南大阪線を乗り継いで、9時過ぎに布忍駅に到着。大阪府松原市にある駅である。

 私が今回訪れたかったのは、かつて「更池」という地名だった被差別部落である。食肉産業が盛んで、同じく大阪の向野(現・羽曳野市の一部)と並んで日本の食肉産業の源流とも言われている地域だ。最近、更池出身の作家・上原善広さんの『路地の子』や『日本の路地を旅する』、『被差別の食卓』を読んで、現地を訪れてみたいと思った。

 更池という地名は、中心部にあった溜め池がその地名の由来になっているのだが、現在、この地名は一般的には存在しない。正確には旧更池村の南方が被差別部落だったのだが、現在では住民や関係者の間でのみ、象徴的に「更池」と呼ばれている。(『被差別の食卓』)

 布忍駅から南西方向へ歩き、西除川へ出る。

豚は、牛に比べれば小さいのでさらに簡単だった。路地の近辺には豚舎がいくつもあったので、遠くに行く必要はない。生体のまま西除川の橋の下に引っ張ってきて落とした。血や内臓は川の水で洗うから、小さな川は瞬く間に赤く染まった。(『路地の子』)

 そろそろかなというところで、毛皮の専門店を見つける。最盛期の更池は住民の80%以上が食肉産業に従事していたそうだが、当然ながら皮革産業に従事する人もいただろう。肉が出れば、皮も出る。

 さあ、本格的な散策を開始しよう。

 ※ここからは、実際に歩いて回った時系列ではなく、ある程度のジャンル分けをして記載します。

 市営団地の一角に、更池村の記念碑がある。

 山口豊太郎さんの像が置かれている。更池地区の水平運動を牽引し、「更池解放の父」と呼ばれた方である。

 大きな人権交流センターがある。施設内容を見る限り、公民館とスポーツセンターを合わせたような機能を持っているようだ。

 住宅街を歩く。実際には細い路地にも入って行ってそれなりに写真も撮ったのだが、個人宅等に焦点を当てたものをここに載せるのは憚られるので、道等を撮影したものに限る。

 食肉店のすぐ近くに、更池の者しか入らない銭湯があり、その横に、大人だと横這いにならないと入れないほど細い小路がある。私たちはそこを難なく通り抜けながら、木の棒でがりがりと木の板の壁をこすりつけては、その家の主である独り者の婆に追いかけられたりした。(『日本の路地を旅する』)

 路地という名のとおり、更池にはそうした入り組んだ小路がたくさんあり、子供だと迷ってしまうほどだった。ただ範囲はとても狭いので適当に歩きまわっているとどこかしらに出られた。それでも幼い頃は、一度入ると出られないのではないかと怖かったものだ。(同上)

 私たちは苔の庭を目指すことにした。それは長屋が密集している小路の真中にある二坪ほどの小さな庭で、長屋の住民共同の庭だった。一部にしか陽が当たらないため苔に覆われている。迷路の小路にある目印の一つだった。(同上)

 路地を歩いていて感じたのは、祠やお地蔵様が数多く点在していることである。調べてみると、これは更池に限らず被差別部落に共通した特徴のようで、そのことについて分析した著作もあるようなので、いずれ読んでみたい。

 改良住宅を見に行く。「改良住宅」とは、住宅地区改良法に基づいて、「不良住宅が密集する地区の環境の改善整備を図り、健康で文化的な生活を営むに足りる住宅の集団的建設を促進する」ために建設されたものである。公営住宅と混在されがちだが、根拠法も目的も異なる。

 昭和44年7月には、同和対策事業特別措置法(同対法)が制定されていた。それまでトタン屋根に木造、共同井戸に共同便所が当たり前だった路地の長屋は潰され、鉄筋コンクリートの最新の団地が次々と建設されていった。(中略)「かっちゅう長屋」も解体され、住民たちは新しく建てられた団地へと次々に引っ越した。(中略)四人の子供を持つ龍造も、手狭になった実家を出て、新築4階建ての改良住宅と呼ばれる団地に越していた。(『路地の子』)

 団地の裏は、広大な空き地になっている。かつては畑と屠場があったようだ。おそらく、上原善広さんが住んでいたのもこの団地だろう。

 私が住んでいた団地の路地は、正確には「市営更池第二団地六号棟」といった。大量の洗濯物がぶら下がった団地のベランダからは、一面の畑と、かまぼこ形をした牛舎が何棟も連なっているのが見渡せた。(『日本の路地を旅する』)

 奥に見えるのが六号棟である。

 現在の入居率は、おそらく2~3割だと思う。敷地内でお花の手入れをされていたおばあさんに挨拶をしてお話を伺ったところ、若い人はほとんど住んでおらず、エレベーターがないので上階は足の悪い老人にとっても住みづらく、どんどん人が減っているとのことだった。

 続いて、かつての屠場(とば)を見に行く。ここは複数の屠場が統合されて作られたものだから、統合前はもっと小さな屠場が各所にあったのだろう。

「あれ、牛さんの声なん」 階段の下からゴトゴトと自転車を出していた母は、私の問い掛けにただ短く「そうや」と答えた。毎朝、九時には保育所へ行くため母と一緒に出かけていた。団地の鉄の扉を開けると、ギェーッとかギャーッという牛や豚の泣き叫ぶ声が、空いっぱいに満ちていた。(中略)「牛さん、殺されるから泣いてんの」「そうや」 母は私の方を見ないで、そう返事をした。(同上)

 この屠場は「南大阪食肉地方卸売市場」という名称で、民営から公営(市営)、再度の民営化といった変遷を経て、最終的には運営会社が破産し閉鎖された。

 屠場の経営危機は、ずいぶん以前から囁かれていた。畜産農家のある地方で割って、枝肉にし、都市部へ運ぶ方式が盛んになってきたためだ。それまでは生体、つまり生きた牛を全国各地から大阪まで運んできて割っていたのだが、大阪郊外の都市化が進むと、地方で割って運ぶ方が危険も少なく安価なため、全国的にそうした方向になっていったのだ。更池の屠場は莫大な赤字を抱え、そのまま倒産してしまった。(『路地の子』)

 近隣の食肉加工事業者も同様で、バブル崩壊による食肉需要の低迷やBSE問題、この地域ではないが食肉偽装事件などの影響で事業者数は大きく減少し、今に至っている。しかし、それは全盛期に比べたらの話であって、現在も多くの食肉業者がこの地域で経営を続けている。

 廃業してしまった会社も所々に見受けられる。

 散策を終了し、お土産探しに移る。お目当ては、被差別部落特有の食べ物。「さいぼし」と「あぶらかす」である。

 更池では、たった500メートル四方ほどの自分たちの地区のことを、現在でも「むら」と呼んでいる。(中略)そんなむらの中でいつのころからか、一般地区の人々が見向きもしなかった死牛馬の肉を食べやすいように、そして保存しやすいように工夫した食べ物が生まれた。(中略)そんな「むらの食べ物」は、道路一本隔てた他の地区においては、存在すら知られていなかった。(『被差別の食卓』)

 「さいぼしならここ」と言われているお目当てのお店「西野食品」を訪れたのだが、なんとつい先日に閉店していた。

 現在、さいぼしの原料となる馬肉は、国内産の価格高騰により主に海外から輸入されているのだが、コロナやウクライナ情勢の影響で輸入量が大幅に減少している。そのため、最近は戦後しばらくの頃まで作られていた牛肉のさいぼしを製造されていると聞いていたが、味は馬肉のほうがはるかに美味しいそうなので、こういう決断に至ったものと推察される。非常に残念である。

 同じ道沿いにもう1軒精肉店があったなと思い出し、「丸喜多総本店」へ。

 期待が高まる。

 無事にサイボシを発見。こういう形なんだ。

さいぼしというのは、日本版ビーフジャーキーといえばわかりやすいだろうか。作り方は簡単で、薄くスライスした牛の肉片に塩をすり込み、二日ほど天日干しするのだ。冬だと天気の良い日を選んで一週間ほど干すと出来上がる。しかし、わたしはこれを食べたことがない。この牛肉のさいぼしを食べていたのは、更池でも恐らく、戦後しばらくの間までだろう。わたしがいつも食べていたのは、馬肉のさいぼしである。(中略)こちらの方が柔らかくて旨みがある。(中略)現在のさいぼしは燻製にしてあるので、よい風味が味わえる。その食感は、外は固く中は柔らかい。ビーフジャーキーというよりは、ハムのようだと形容したほうが実感にちかい。(同上)

 女将さんのお話によると、サイボシは人気が高く、地域内だけでなく私のように遠方からも買いに来る人が多いそうだ。しかし、先の事情で製造量は大幅に減っていて、日によっては何十人というお客さんを断らなければならない状況になっているらしい。おそらく、あと5、6年でなくなってしまうのではないか、とのことだった。

 油カス(あぶらかす)も見つけた。

 あぶらかすとは、牛の腸をカリカリに炒り揚げたものだ。ボロ雑巾で形作ったドーナツのようなそれは、真ん中に穴があいていて、内側には脂がこってりとついている。

 ドーナツ型に揚がったあぶらかすはきつね色をしており、内側が分厚い脂で覆われている。通常、料理に使うときはその内側の脂を取り除いてぶつ切りにして調理する。取り除いた脂はそのままヘッドになるので、煮物の風味付けに入れてもいいし、フライパンにひく脂として使うこともできるが、捨ててしまう家もある。

 料理方法としては、菜っ葉と煮たり、うどんなどに入れるのが最も一般的だが、お好み焼きなどの焼き物に入れたりもする。また自宅で揚げなおしたり、フライパンで炒ってパリパリにし、そのまま塩をつけて食べる”通”もいる。(同上)

 サイボシ、あぶらかす、ハラミ肉300gを購入し、宅急便で自宅へ送る。

 これにて、更池散策は終了。

 布忍駅近くまで戻り、郵便局で現金を下ろすついでに、南新町商店街で見つけた「牛正精肉店」に立ち寄る。

 せっかく食肉の街を散策した後なので、お肉が食べたい。店頭で揚げている揚げ物の中から、いくつかを選んで購入。

 西除川沿いの広場で昼食にする。

 大阪に来たら、やはり串カツは食べないと。揚げ立ててで美味しい。

ミンチカツ、一口ヘレカツ、うずら玉子、コロッケを続けて食べる。1時間半以上歩き回った直後なので、揚げ物の油が全身を駆け回っていく。

 食事を終え、隣駅まで歩くことにする。隣の高見の里には母の実家があり、今は祖母が住んでいる。その家から更池までは、歩いて20分ちょっとの距離だ。そんなに近くにあったとは知らなかった。ちなみに、翌日祖母とこの話をしたところ、更池の存在はもちろん知っているが、行ったことは一度もないそうだ。一方、母は西除川で馬が死んでいるのを見たことがあるらしい。母の時代は既に同和教育も行われており、差別意識というものはなかったが、おばあちゃん(私からすると曾祖母)からは「あの川の向こうへは絶対に行くな」と言われていたそうだ。

 せっかくなので、少し遠回りをして、思い出のたこ焼き屋さんにでも行ってみよう。

 と思ったら、そのたこ焼き屋さんをはじめ、青果、鮮魚、精肉店などが集まっていた商店群は跡形もなくなり、大きなスーパーマーケットになっていた。そりゃそうかと思いながらも、ショックを受ける。

 高見の里駅の近く、駅から祖母の家へ向かう途中にある小さな商店街も、かなり寂れている。

 私が好きだったパン屋さんも廃業してしまったようだ。

 祖母の家には寄らず(祖母は今日から母と弟家族と一緒に堺へ泊まりに行っている)、高見の里駅へ戻る。

 つづく。